手段と、目的の混同について
自分がそこまで脱社畜したいのかと聞かれたら、そこまでまず社畜じゃないと答えるが、会社のサーバーにアクセスし、メールをチェックし、明日の朝何話すか考えてからブログを書き始める僕はすでに、「自覚なき社畜」といういわゆる無我の境地にいるのかもしれない。
この頃、ユビキタスの清水さんのブログと、脱社畜にはまっている。
そんな折に、目的と手段を混同するのはつまらん、ありだろうという論争に出会った。
「目的があっての手段だ」なんて考え、つまらなくないですか? : けんすう日記
いや、論争というにはあまりに平和的で二つの意見は納得できるものであるし、ここまで意見を割ってくれると、なるほどこれが多様性か、どちらも認める自分が乙、と我が物顏でevernoteにメモってしまう。
果たして、どちらがいいのか。
まず、手段が目的化するという意味を紐解きたい。社会人若年目の私としては小学3年生にわかる説明を心がける。
手段ーある事を実現させるためにとる方法。てだて。
目的ー実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。
目的 A のために手段Bをしている。いつからか、手段Bをすることで満足するようになる。
AとBに適当な文字を入れると、明確にいいのか悪いのかわからなくなる。
①A=起業 B=アイディアを探す →...
②A=健康 B=運動 →うーん、どうでもいい。果てしなくどうでもいい。
③A=世界を変えるために B=起業 →脱社畜さん的な考え方ならこっちはありなのかな。
書いていて思ったのは、例えば、「起業したい」ってのが根本にある人ってまずいないと思う。かっこいいから 起業したい。なら、かっこいい自分が根本の理由だと思う。
だから、一番の問題は「起業したい」の裏側にある想いとか、理由を説明できない、伝えられない、ってのだけは陥っちゃだめだなと。
ともあれ、なんかどっちでもいいこと考えたけど、本当にどっちでもよかった。
だめだこりゃ